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府藩県三治制とは



わずかな年数のみですが、明治時代には「府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)」と言う制度が設けられていました。ここでは、この「府藩県三治制」がいつごろ制定されたもので、どういう制度だったのかを詳しく紹介します。

「府藩県三治制」の歴史

「府藩県三治制」の歴史

府藩県三治制がどういうきっかけで実施され、いつごろまで続いていた制度なのか、詳しい流れを紹介します。

府藩県三治制とは

府藩県三治制とは、明治維新後の1868(明治元)年、「政体書」交付を機に実施された地方行政制度のひとつです。日本国内の各地域を、現在の都道府県のように区分けするために行なわれました。ただ、現在の「都」「道」「府」「県」といった分け方ではなく、「府」「藩」「県」と言う3つで区分されました。各単位の区別について説明すると、「藩」は明治維新以前も藩として置かれていた土地を、「府」は城代、京都所司代、奉行により統治されていた土地を、「県」はそれら以外の土地を指しています。「府」には府知事、「県」には知県事をそれぞれ新たに任命しましたが、「藩」は以前のまま大名が支配しました。つまり、藩のみは明治政府の力が及ばなかったのです。しかし、実施された翌年の1869(明治2)年には正式に明治政府の行政区画となり、「大名」と言う名称は「知藩事」となりました。さらに1870(明治3)年には、明治政府が各地域に及ぼす権力が一層強まり、全国的な統制が確立します。

府藩県三治制の終焉

明治政府による藩への統制が強められ、知藩事たちの以前までの自由が奪われると、各地の藩は途端に財政難に陥り始めます。そして、「藩を手放したい」と言う知藩事が続出してしまいます。これを深刻に捉えた明治政府は、府藩県三治制を疑問視し、中央集権体制を改めるべく「廃藩置県」を実施し、「府県制」となります。これが1871(明治4)年の出来事です。つまり、「府藩県三治制」は、実質3年程しか実現されていませんでした。廃藩置県実施時の府、藩、県の数は、府が3つ、県が40、藩が261でした。

有名な知藩事

自らの藩の財政を管理できず、廃藩置県を実施するきっかけのひとつを作り出してしまった「知藩事」ですが、中には有能な人物もいました。ここでは、有名な知藩事を紹介します。

鍋島直正(なべしま・なおまさ)
肥前国佐賀藩主(第10代)にして知藩事であり、「佐賀の七賢人」としても知られる人物です。廃藩置県には、最も早く賛同の意を示したと言われています。
島津忠義(しまづ・ただよし)
薩摩藩藩主(第12代)にして、のちの知藩事である人物です。廃藩置県後は公爵となり、東京へと移住しています。最後の薩摩藩主ですが、事実上、藩の政治を行なっていたのは父親の島津久光や西郷隆盛であったと言う説があります。