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役所情報

県庁所在地の決め方



都道府県庁がある地域のことを、その名の通り「県庁所在地」と言います。ここではこの県庁所在地について紹介します。

「県庁所在地」とは

県庁所在地が置かれる条件

「県庁所在地」とは、地方自治法4条1項に基づき、各都道府県の条例で定められた住所を含む自治体(または都市)であり、各都道府県の行政機関本庁舎が設置されている都市のことを指します。

県名と県庁所在地

県名と県庁所在地は、一致する所としない所があります。これについては諸説ありますが、明治維新が大きく影響していると言われています。では、県庁所在地の歴史を追ってみましょう。 1871年(明治4年)明治政府は中央集権を進めるために、それまでの大名領という藩の区分けを廃止。この廃藩置県が行なわれた際、明治政府側に付いた藩と反対する藩を区別するために、賛成側は同一県名にし、反対側は異なる県名にした(例外は福島山形福井和歌山)という説があります。

役所で行なわれていること

当初は藩をそのまま県に置き換えたため、都道府県は現在よりも細かく分かれており、3府302県。廃藩置県が実施された同年、大きすぎる藩は分割し、小さすぎる藩は近くの大きな藩に統合が進み、その後も合併・分割が行なわれ、1889年(明治22年)に3府43県(北海道を除く)となり、最終的に落ち着きました。その混乱にまぎれ、県名と県庁所在地が一致しないところや名前を変えられた所が発生したのです。

県庁所在地は主に、すでに人口が集中していた城下町・港町・門前町など商業地帯や交通の要所が選ばれる傾向にありました。しかし、発展した地域であっても政情不安定による治安上の理由が絡んで設置都市にされないケースもあり、一概に最も栄えた人口の多い都市に置かれるとは言い切れません。

ちなみに、中央政府の命令によって派遣された「県令」と呼ばれるものが、「知事」の始まりですが、1947年(昭和22年)4月、都道府県も市町村と同様の「普通地方公共団体」に位置づけられ、知事も選挙によって選ばれることになりました。

県庁所在地が決定した例

福島県

会津若松は県内では最大の都市でしたが、「八月十八日の政変」をきっかけとした長州(新政府軍)と会津の根深い対立構造があったため、候補に挙がりませんでした。有力な都市は他にもありましたが、交通の便や商業地としての規模を考慮し、須賀川、本宮、二本松なども外され、福島に決まりました。新政府との軋轢も少なく、奥州の主要な交通路である中通り地方にあるためと言われています。

長野県

現在の長野県を形作る原型となる地域は、古くから「信濃国」と呼ばれていました。江戸時代、信濃国には11の藩があり、藩領と幕府の直轄領、善光寺・諏訪大社などの寺社領などの領地が点在していました。あちこちに散らばっていたそれまでの幕府領を管轄するために、維新政府が1868年(明治元年)8月2日、信濃国の飯田藩に伊那県を設置。しかし、広大な領地を管轄するため統一的な支配が困難であったため、1870年(明治3年)9月17日に、東信・北信エリアを独立させて「中野県」としました。

ところが同年12月、中野県庁を中心とした中野町(現中野市)一帯が焼失する大規模な百姓一揆が起きます。そこで維新政府は、「中野町」から「長野村」へ県庁を移転し、翌年には「中野県」という県名を「長野県」に改称しました。 この時期の信濃国は、伊那県と長野県という二つの県と、松代藩や松本藩などのいくつかの藩からなっていました。

そして7月、廃藩置県によって、先に紹介した11の藩と「名古屋県」の一部木曽地域の藩がすべて県になり、伊那県と長野県をあわせて14の県が誕生。しかし、その4ヵ月後には政府の政策で東信・北信エリアを「長野県」とし、中信・南信・飛騨エリアを「筑摩県」とする二つの県に再編成されました。これで信濃国内のすべての県が二つの県に合併されたことになります。

この5年後、旧松本城内に置かれていた筑摩県庁が火事で焼失。これを受け、政府が筑摩県を長野県に統合すると共に、飛騨を岐阜県に併合することで長野県は現在と同じ形になったのです。
広い長野県全体から見れば県庁の位置が北部に偏っているとして、その後も分県や移庁問題は度々議論の対象になったと言われています。