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歴史上まれにみる大政策「廃藩置県」



全国47都道府県それぞれに都道府県庁ができるきっかけとなった、明治時代の行政改革のひとつが「廃藩置県」です。ここでは「廃藩置県」について紹介していきます。

廃藩置県とは

廃藩置県とは

廃藩置県とは、1871(明治4)年に行なわれた行政改革のことです。それまでは、各地の「藩」がそれぞれの治める地域の政治をとりまとめてきましたが、これを明治政府(中央政府)がひとくくりで取り仕切ることができるようにするため、藩を廃止する名目で廃藩置県を行ないました。これがいわゆる「中央集権化」というもので、これにより明治政府は国の方針を全国各地にまで伝えやすくなり、政策をよりスムーズに進めることができるようになりました。

政策を実行して以降、全国に261あった藩の代わりに「府」と「県」が置かれ、「庁」とともに新たに「知事」「県令」なる役職の人物が各府県を取りまとめるようになりました。ちなみに、現代では「都」「道」「府」「県」の計47個に分けられていますが、当初は「府」が3つ、「県」は302と、計305もの地方公共団体が存在しました。府と県の数は、その後も何度か増減を繰り返し、同年の年末までの間に府は3つ、県は72にまで統合されています。3府は「東京府」「京都府」「大阪府」で、主要地域の位置づけがされていました。

こうして平安時代から続いていた各地の領主による「地方分権政治」は中央政府に一元化され、「廃藩置県」は「明治維新最大の改革」とまで言われる程大政策となったのでした。

廃藩置県をスムーズに実行できた理由

廃藩置県を滞り無く実行することができた背景として、「藩主たちの反発が少なかったこと」が一因となっています。藩主たちの反発が少なかった理由を紹介します。

財政難のため

廃藩置県が行なわれる前まで、各藩の財政は悪化の一途をたどっていました。特に、1872(明治2)年まで起こっていた内戦「戊辰戦争」の戦費などが財政難に拍車をかけることとなり、破綻を危惧する藩が多かったと言います。実際、「藩を返上したい」と申し出る藩主もいたと言われています。廃藩置県を行なうことで財政は国が一括で管理することはもちろん、それまでの旧藩士たちが抱えていた債務は、すべて免責されることになったのです。つまり、藩主にとっては、「財政難でこれ以上統治していられない藩を、負債をほぼ抱えること無く手放せる」絶好のチャンスだったのです。そのため、廃藩置県は藩主らからの反発が少なく、スムーズに実行することができたと言われています。

反発する根拠がなかったため

徳川家の領土は、1868(慶応4)年1月8日に開催された小御所会議ですでに奉還されていました。それは徳川幕府に忠誠を誓い、幕府から土地の安堵を約束されていた各藩主らにとって、権限の失効を意味します。そのため、各藩主らは廃藩置県に対して反発することができなかったこともひとつの要因だと考えられています。